気づいたらもう上半期が終わっていました。読んで印象に残った本の紹介をしようかなと思ったのでします。思い出せる限り書きますが、リストアップ忘れはあると思います。
上半期は正直なところ、4月以降が最近保育園に通わせ始めた子どもから風邪をもらいまくり、体調がよかった日の方が珍しいのでは…という状況でした。そしてそれによって仕事の出席日数が大きく圧迫され、残りの時間で仕事に忙殺されるという状況でした。なので、読んだ本の読んだ時期が今年の前半に偏っていると思います。大変でした。
技術書も何冊か読んだのですが、すみません、今回は技術書と非技術書で分けて記事を書くほど技術書を読んでいません。なので、読んだ本は後日ひとつひとつ感想を書いた記事を用意しようかと思います。技術書の感想文は著者に直接届くことも多く、本へのエールになるはずなので…!
例の如く免責事項ですが、書籍の中身を思い出しながら書いています。中には読んでからしばらく月日が経った本もあるためです。書籍の内容を正確に記述できていなかったり、私の解釈が多分に含まれることがあります。雑な読書感想文としてお楽しみください。
デリダ
どこかで学びたいなと思っていたデリダにようやく入門することができました。デリダは学生時代から、読んでいる書籍に引用されているなどの理由でたまに読んではいたのですが、本当に何言ってるのかよくわからなかったんですよね。そして、この本を読んだあとである今でも、あんまり何を言っているのかよくわかりませんでした。本気で何を言っているか理解し、デリダの考えをもとに何か新しい議論を組み立てたいと思ったとしたら、たぶん原著を紐解かないといけないのでしょう。
ただ、デリダのとってきた戦略は少しわかったような気がします。総じて文章(フランス現代思想では「テクスト」などと呼ばれることが多そうに思いますが)やある概念があったとして、人々が暗黙の前提としておいてきた部分を暴いてひっくり返すのが得意そうだ、ということがわかりました。哲学というのは私が思うには前提の外し合いというか、本来そういうゲームなわけですが、デリダもちゃんと哲学をやっているなと思います。ともすればフランス現代思想はただ小難しいことを言っているとか、ただの相対主義だと批判されることが多そうなんですが(半分くらいは当たってると思わなくもないですが)、人々が考えたこともなかった前提を暴きながら、私たちが当たり前として享受してきた権威や固定観念なんかを壊していくわけですね。
デリダがそうした権威や固定観念-いわゆる「主体」を壊した後で、そこから何か概念を打ち立てたのかというと意外にいろいろあるんですね。たとえば「ウィ」とか「散種」とかがそれに当たるんでしょうか。一方で有名な方の「原エクリチュール」や「原暴力」というのは、暴かれた側に対して命名している何かであって、何か新しい概念を生み出しているとは言えないのかもしれないと思いました。我々は名付けることで問題を認識できるので、そういう役割といったところでしょうか。そして最もよく言及される「脱構築」というのは、要するに彼の戦略の総称なのであって、これは概念なのだろうか?と思いました。脱構築して生み出される概念が重要なのであって、脱構築することそれ自体はとくに生産的な活動ではないと私は思いました。
本書を読んできて登場するキーワードは数多かったですが、日常の哲学的な分析などで彼の使うキーワードをそのまま流用してもダメだなと思いました。各キーワードがデリダの主体の解体のための戦略用なのか、はたまたデリダが主体の存立性の怪しさを暴いた後生み出したその主体に対置しうる新しい概念なのか、このあたりは整理したいと思いました。時間があったら。
なぜ読もうと思ったかというと、最近ITの用語にプラトンのイデア論を使っている説明を読んだときに、「本当に議論を適用できるのだっけ?」と思ってしまったことがあったのでした。私はこの手のただ単に哲学的な概念を身近なものごとに適用するのは、入門者がやるよくやる光景だなと思っている節がありますが、一応誤用でないかをたしかめてみたのでした。結果は下記のnoteの記事にまとめておきました。よくよく考えてみると、実は使い方が間違っているのでは…?というのはあるあるで、次はデリダの脱構築なんじゃないかと思ったわけですね。その次はウィトゲンシュタインあたりがよく引用されているので、チェックしたいなと思っています。
こうした誤用については、哲学の文脈では即座に否定されるべきものでもありません。誤読からはじまった新しい哲学概念などいくらでもあるように思うからです。むしろ「どう誤って転用され、使われたか」は分析対象です。
代表的なものだと、郵便局員が誤配するさまから間違って何かが配達されることを皮切りに分析をはじめ(それこそデリダなんですが)、物事というのは意外と間違って-つまり、過剰に伝えられたり、逆に必要な要素が不足していたり-伝わるという事実を分析した「誤配」なる概念があったことを思い出すくらいです。誤読ないしは誤配のような「誤り」は、哲学的には実は立派な分析対象だったりします。哲学という学問がいい加減というか懐が深いというか、そういうことを表しているエピソードのひとつだと思います。
という話を↓の本で読んだ気がするんですけど、数年前の話なので厳密な議論はもう忘れました。
ただ、そうした誤用が議論として成立しているかどうかはまたチェック対象でもあるのです。目的もなく読み間違えることを肯定することは難しいと私は同時に思います。
『プラトンの哲学』、『プラトン 理想国の現在』、『国家』
上述した記事を書いた際に、プラトンにあらためて入門してみました。
『国家』は学生時代に一応ほとんど全部読んだんですが、あらためて読むといろいろ発見がありますね。『国家』におけるプラトンのイデア論の展開時には実は教育に関する言及があります。流れとしては、イデアというのはいわゆる想起のようなケイパビリティを使えるようにならないと捉えられないわけですが、ではそのケイパビリティをどう手にすれば良いのか?というとそれは教育なわけです。こうした話の流れの中で、プラトン(というかソクラテス)は次のように語るのです。
そもそも教育というものは、ある人々が世に宣言しながら主張しているような、そんなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂の中に知識がないから、自分たちが知識をなかに入れてやるのだ、ということらしい––あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植え付けるかのようにね。
ところがしかし、いまのわれわれの議論が示すところによれば、ひとりひとりの人間がもっているそのような(真理を知るための)機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを(中略)魂の全体といっしょに生々流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。
教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ。
私はこの教育観が好きです。この教育観は以前紹介したフィンランドの教育観(『ヘルシンキ生活の練習』に書いてあった)に近いと思っています。人々には「それ」をする力が備わっているが、今は練習中で発揮できていないという前提に立つというものです。これは職場で育成をする際にも重要な考え方だと思っています。日本の教育観的にはどちらかというと、「知識がないから、知識をなかに入れてやるのだ」という前提に立っていることが多かったと思っています。これだと、「お前はそれを知らないからできないのだ」となってしまい、要するに結果しか見ていません。そうではなくて、練習をして元々の持っている力を発揮できるように導こうというのが教育なのでしょう。今それができないのは練習が足りないだけであり、それを習得できるよう練習を積んで導くのが大事だ、ということです。
『プラトンの哲学』はちょっと内容は古めだとは思いますが、プラトン哲学をよくある哲学入門よりは深掘りして解説している良い本です。主にはイデアに関する章(「美しき邁進」)を参照しました。
私の主張への我田引水ではあるのですが、イデアがアプリオリ性(先験性)を持つことが言及されておりよかったように思います。というのも何冊かプラトンの入門書を読み解きましたが、イデアのアプリオリ性に直接言及しているものがほとんどありませんでした。私自身はイデアの主張の確信はこのアプリオリ性の提示だったのではないかと考えていたので、この書籍で答え合わせができました。たとえば下記などです。
その意味において、「まさに〈美〉であるもの」(〈美〉のイデア)は、規範としてわれわれの経験そのもののうちに働いている、しかしそれ自身は「先験的」な原理であるというほかないであろう。(p.100)
しかし、この間新聞か何かで特集されてて驚いてしまったんですが、今って哲学書が売れてる時代なんですね。もちろん硬派なものではなくて、哲学者が一般向けに新書〜薄めの単行本くらいで現代社会を論じるタイプのものがヒットしているようではあるのですが、15年近いわたしの読書ライフの中でなかなか見ない展開だなと思います。永遠に繰り返してるなと思うのは、ロジカルシンキングがはやる→ロジカルシンキングだけじゃダメだがはやる→やっぱりロジカルシンキングがはやる→(永劫回帰)ですが、哲学がはやっているのはあまり見ないですね。でも、哲学が求められる時代は相当終わってると思うので(多分多くの哲学者が共感してくれると思う)、世の行く末を憂うだけなのでした…。
失敗できる組織
失敗というと、「できるかぎり早くたくさん失敗せよ」というシリコンバレーのスタートアップでの言葉が黄金律として語られる傾向にあります。実際そうしてきたからあそこまでの成長を収めたと言える企業も多いことは事実です。しかし筆者は、これはすべての場面に当てはまるわけではないと言います。無意味で正しくない失敗というものがあるのだということです。
本書の中で価値があると位置付けられる失敗は「賢い失敗(正しい失敗)」と呼ばれるものです。賢い失敗には条件があります。1. 新たな領域で発生していること、2. 状況的に望ましい結果に近づく機会がありそうであること、3. 既存の知識に基づいていること(仮説から導き出された、などと言える)、4. 貴重な知見を得るのに必要最小限の規模であること、です。要するに失敗するかもしれないことを、よく設計して実行してそこから知見を得ようとして得た失敗、みたいな感じでしょうか。
この手の失敗は「できるかぎり早くたくさん失敗せよ」という黄金律が当てはまることでしょう。たくさん仮設検証してたくさん「失敗」し、たくさんフィードバックを得ようという文脈での「失敗」は価値があると言えるはずです。この言葉は多くの場合字面だけ歩いていて、意味のない正しくない失敗さえ肯定してしまうのは違うといったところでしょうか。
筆者はそのほかの失敗の分類として、「基本的な失敗」と「複雑な失敗」という概念も提示しています。基本的な失敗は要するに凡ミスのようなもので、不注意であったり、ミスをしそうなのに目を背けた結果悪化したりなどした場合に生じます。複雑な失敗は、原因が複合的すぎてひとつとは特定が難しく、システム(系)全体で捉えないと真因に辿り着けないようなものを言います。賢い失敗とは違い、なじみのある領域で起こります。また、「慣れ」が悪さをすることも多いです。私の扱うソフトウェアのようなものも複雑な失敗が多く埋まっているといってよいかもしれません。
本書を読んでよかったのは、まず「失敗」と一口に言ってもさまざまにありそうだとわかったことです。よく設計された状態でそれでも発生するが、結果的に自分たちにとって有益な知見を得られるもの。単なる凡ミスで、有益な知見を得られるというより凡ミスをするという事実を得られるようなもの。最後に、慣れた場所で起こる複合要因からくる失敗、です。
仮に「失敗」を組織的にコントロールしたいとなったときにこのフレームワークはよく使えるかもしれないと思いました。自分たちが今どの失敗を防ごうとしているのかを、担当者の間で明確にして議論することができそうです。本書の後半では、失敗からどう学んでいくかやそもそもどう防いでいくかなどの実践編が続きますが、これらの知見を日々の仕事に活かしてみようかなと思っています。
[実践] システム・シンキング
最近仕事でより大きい物事を見るようになって思うのですが、こうした役割につくと重要になってくるのが思考力です。思考力にもいくつか方向性があるとは思いますが、目の前の問題の構造を把握し、効果のある解決策を優先順位を決めて打っていくという力が重要になってきます。よく言われるロジカルシンキング(ビジネスレベルでの)は、コンサルタントをやっていたこともあって基本的なスキルは持っていると思っています。もっとも、ロジカルシンキングは新卒で身につけておく何かで、中間管理職になるようなタイミングでさらっていては遅いわけではあるんですが。もう少し新しい切り口のものにはどういうものがあるのか気になっていました。
そのうちの一つとして、システムシンキングと呼ばれる分野に入門してみました。システムシンキングというとソフトウェアエンジニアなら普通にできるのでは、と思わなくもないわけですが、対象が単にシステムなわけではなくて、たとえば会社の経営状況とかそういうものになってきます。そういえば前職のUS企業に務めていた際に、CEOがこのシステムシンキングに出てくるグラフを使って、自分たちのビジネスモデルの収益の流れを説明していたことを思い出しました。当時はいい図だなと思ったくらいで、これに名前があると知ったのが本書でした。
システムシンキングの大元にあるのは「因果ループ図」と呼ばれるものです。要するに因果関係の流れを矢印を使った図にして起こすというものです。そのなかで、ある事象を増幅し続ける事象と、減退させ続ける事象とが見つかります。この図によって整理された二つの事象のどちらかに手を加えて、より望ましい結果を手にいれるというのがざっくりとしたシステムシンキングの説明になるでしょうか。システムシンキングは、氷山の一角として見えている事象の「原因」に関する深い分析をするために用いられる手法のようで、たとえば下記の本も有名かもしれません(タイトルから何を言いたいか想像がついてしまったので、私は読んでないけど)。
思考術というといくつか方向性がありますね。最後に最近注目しているものを紹介しておきたいと思います。
まずは新しい概念を生み出す方向性のものです。たとえば世界観のデザインがそれにあたります。結局のところ、停滞したビジネスモデルを革新するためには、次のコンセプトを生み出す必要があると私は思っています。コンセプトとは、ひとつの論理体系を持った世界です。つまり、世界を構築できればコンセプトを構築できるということです。読みかけですがたとえば下記の本で具体的な取り組みが紹介されていると思っています。
「SFプロトタイピング」にも実は注目しています。最近生成AIが本当に人間かのように振る舞い始めてにわかに近未来を感じつつありますが、こうした展開でその後どうなるかはいくつかのSF作品で考えられている(多分)と思うわけです。ここから先の数十年を占う際にSFはひとつの思考の種になる可能性があります。この先の社会がどう変化するかを予測してプロダクトを作れると嬉しいかもしれないという浅い期待から注目しています。知ったのは下記の本でした。
翻訳者の全技術
山形浩生センセが翻訳している際に何を考えているかや、さまざまな物事についてどう思っているかが書かれていて楽しめる本でした。とりあえず翻訳の動機が「自分の理解のためにいろいろ訳していったらなんか筆が乗ってそのまま全部訳してしまったものが多い(意訳)」なのが笑いました。山形氏の翻訳の文章は要するに、山形氏の理解のプロセスであってその結果なのだといっています。なんかそれって実質ファンブックを出しているのと同じなのでは?新手の推し活か何かでしょうか?
自分の理解を披露しているだけなのだとすると、原著者に対してときどき辛辣な翻訳者解説を残すという、有名な行動の理由も納得できます。山形氏の出す翻訳書は結局のところ、山形氏の理解を出版しただけに過ぎないのですから、翻訳者解説で原著者をボコボコにしてしまっても構わないのです。本の哲学として何も方向性は間違ってはいないことになります。本書を読んで、すべての謎がつながった気がします。
あとは積読は有害であるとハッキリいっている節があって、本書を読んだ多くの人の感想を見ていると、そこで心がキュッと痛くなるようです。積読は無価値の山であり、その人の怠慢の象徴であり、未練であり、ごまかしであり…と散々な言われようです。引用しておきましょう。そして、一緒に心を痛めましょう(違)。102ページ〜103ページにそうした翌日立ち直れなくなりそうな文章が鎮座しています。
そうした無価値の山と化した積ん読を放置しているのは、その人の怠慢であり、未練でしかない。そしてそれを「読まなくたっていいんだ」とうそぶくのはごまかしであり、まして「読まない本にこそ価値がある」などと言ってみせるのは盗作だ。それを放置すればするほど、精神は淀み、知は腐敗する。可能性だったはずのものが、もう単なる言い訳になり果てるのだ。
自分が目を向けられずにいる己の失敗やまちがい、自分のかつての浅はかさ、そして何より、自分の怠慢と先送り。やると言ってやらなかった数々の小さな積み重ね。果たせなかった約束の数々。できもしないことを、できる、やると大見得切ってしまった恥ずかしさ。もう読むことはないと自分でもわかっている積ん読には、そのすべてが淀んでいる。そうした無数の無責任、不義理。かつてのプライド。
ロシア政治
毎度お馴染み何かしらの東欧関連の書籍コーナーといったところですが、気になったものが先月出版されていたので駆け足で読みました。ロシアの政治状況について入門できたいい機会でした。「ええ…なにそれ…」と読みながら唸れて私はおすすめの一冊です。西側民主主義国(仮)育ちの我々の常識が大きく崩されます。
ロシア国内の情報統制が高度になされていることは他の国からすれば周知の事実ですが、その中心人物にプーチン氏がいるのは間違いありません。しかし、プーチン氏ひとりの権威主義体制だけで維持できる類のものでもないと筆者は言います。権威主義体制を支えるさまざまな政治システムがあってこそ、この情報統制は成り立っていると言えるでしょう。実際本書でいくつか登場する「支える」側のシステムは、なるほどその手があるのか…と思わされるものが多いです。
余談ですが、日本語で動画やインターネット検索でロシア政治を知ろうとしても、近年は何かしらのプロパガンダ的なものが多く、正確な情報を得るのが難しいと感じていました。今検索をかけてみても、「ロシアは近々自壊する」「西側はロシアに勝てるのか」のようなタイトルがずらっと並びます。しかし現実に歴史を見ると、たとえば政権はソ連崩壊の歴史を見るとわかるようにじわじわと崩壊していくものですし、西側が金輪際ロシアに勝てなくなるというような、決定論的な話ではありません。直近20年くらいは経済的にも西側が優位でしたが、ソ連崩壊のダメージを徐々に回復してきたロシアがここ10年くらいは政治的に強く出られている、そういう類の話です。
何よりこれらは識者らの「解釈」の話であり、私が知りたかったのは「事実」の方でした。そういう意味でも、新書の形で研究者の方が事実を淡々と説明する書籍を出版されたのは大きいことだと思いました。ロシアの国内事情や国民感情なども知れてよい読書体験でした。
関連書籍として昨年読んだのですが、ソ連の歴史は今のロシアの政治体制と割と切っても切り離せないように思っています。プーチン氏というカリスマが登場してくるまでには、いくつか苦難のタイミングがあったと思います。評価がどうなのかは専門家ではないのでよくわかりませんが、一通り抑えられておすすめです。














